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法律を学んで

最初に教わったことは、「権利とは自動的に守られるものではない。権利のための闘争を放棄することは、不正の存在と拡大を許す行為である」ということだった。

法律は国会で制定されるもので、国会議員の多数派の意向が法案化されるということを考えるなら、法も政治の結果と言えるのかもしれない。政権与党と官僚、財界との深いつながりがあるとするなら、法もその流れにはあがなえないのだろうか?

正義というと、正しい道理や人間行為の正しさという意味だけど、絶対的な正義があるような気がするが、世の中では立場の違いによって正義も変化するようだ。
自然科学的な真理は、以前には分からなかったことが、だんだん明らかなってきた歴史があるが、法律の進化は一緒に考えられるものだろうか。

昭和の時代の世の中は、法治国家と言ってもこれは建前で、地域社会では法よりも義理が重んじられ、知性での納得よりも感情的な納得が優先され、顔をつぶさない争いのない社会が維持されていたように記憶する。

最近では、地位が高く、かなりの財貨を持ち、何らかの権力や影響力を持た人たちが、一般社会の普通の人々の集団に優越して財貨・名誉・威信・勢力・権力等々の利益を独占し、結果的に一般社会の普通の人々を屈服させているようにも感じる。

過去には、ある特定の利益を追ういくつかの集団が古くから存在し、そのうちの一つが他の集団を屈服させることで、他の集団との紛争解決に自己の解決案を押し付け、それに違反するものに圧力を加え、異論や反論の機会を失わせてきたことがあったのではないだろうか。

権力を握る階級はどの時代にあっても「全社会のため」と称して、自己の財産や経済的利益を守るために法をつくるだけでなく、その法を通して「社会の生活習慣を支配して自己の生活習慣に合致させ、全社会に自己の偏見を押しつけてえ来たのではなかろうか。
(参考と引用は、戒能通孝著 「法律入門」 岩波新書)

[ 更新:2021-06-14 11:24:56 ]

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