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経営コンサルタント吉見からのお知らせ

昭和48年に買った古い本のお話 

私が学生時代(昭和48年)に買った本を読む。岩波新書「憲法と私たち」(出版は昭和38年)に民法学者の戒能通孝氏が「プライバシーの権利」と題して書かれている。

私が買った時から43年の歳月を経ているが、何だか最近の世相にも当てはまると思い、興味深く読み返した。
その一部を紹介したい。以下は吉見が要約しているので、興味ある方は本書をお読みいただきたい。
>抜粋引用開始
庶民に対し支配力を持ったのは家ではなく村であったのではないか。
村では必要とする草木の刈り取りの管理条件、水の管理条件が決められていた。
さらに租税は村の連帯納付であったから、村は無理にでも農民を働かせ、割り当てられた租税の払えない人が出ないようにする必要があった。故に村落生活を送っている限り、村の要求は村民を一人前にすることだった。
村民を一人前にするために、若者組その他の規律があり、そこで一人前の基準が押しつけられていた。
「一人前」とは、1日に田を何枚植える、草を何貫刈り、山までを何往復するなどを総合したものなどが基準であり、その基準をはずれたものは「なまけもん」であり、その基準やその基準を決める村の有力者に文句を言うものは「出過ぎもん」とか「与太もん」と呼ばれた。
だから村落の支配者が村民に対して一人前の基準を守らせるには、他人の私生活をはぎ取り、村民の批判にさらすほかなかった。一人前でない人をできるだけ詳しく観察し、それを村民の話の種にすることによって、封建的村落の需要に合う人間を作っていた。
(ここで村を会社、村民を社員と読み替えてみると、過去の高度成長期の会社と社員の姿が伺えるのではないだろうか)
その後、個人の生活をのぞき見し、それを話題に提供することによって企業利益を上げる産業が生まれた。
政治や経済の事件を事件として報道したのでは売れないから、人の話に還元し、個人の私生活をできるだけ商品化する、その商品化によって商品であるところの新聞、雑誌、テレビを売る。
その結果、大衆は真面目な話に興味を持つよりくだらない話に興味を持つようになっていく。
これは現在の支配的秩序には都合が良い。
政治には興味を持つな、政治にはなるべく関係するな、という原則を徹底的に教え込む歴史の事例がアメリカのマッカーシズムではなかったか。
私たちは、とかくくだらないことを話し過ぎる結果として、くだらない競争心をあおられている。
私たち自身が他人の言葉にあおられ、そして他人の言葉におあられた結果、自分の運命を他人の手に任せたり、あるいは自分の問題を他人が解決してくれるかのように考え込んだりしてはいけない。
私たち自身が、自己に対して決定的な影響のある問題の解決方法を、どうしたら自らの力で探し出すことができるか。
そのためにはまず、くだらない話よりも重要な問題について日常の会話をする習慣を身につけたい。
<抜粋引用終了
今の時代を生きるのは、私たち自身一人ひとり。私たちは日々成長し、年齢を重ねるに従い自立した社会人となり、自律した仕事をしよう。社会は本当に大きく変化しているが、しっかり関わって生き抜いていきたい。

[ 更新:2016-10-31 15:19:50 ]

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