農家に縁のない北海道で生まれ育つと実感はないのです
「日本人の行動様式」荒木博之著(講談社現代新書)
p24には
「農耕的定住集落共同体においては、生存のための食料生産という大前提にはいかなる個人の恣意も許されなかった。」とあり、今の私にはとても耐えられないと感じます。
「集団の成員は、共同の作業に、共同の祭式、儀礼にお互いの連帯感を深めながら相互依存的に生きていかざるをえなかったのである」と続き、昭和40年代後半の農業県の農村地区では、この感覚が強かったのかもしれないと思いだします。
「個人の恣意を許さない世界を動かすものは、当然集団の論理であった。そして集団の論理が絶対的に支配する世界は、すなわち他律の世界にほかならない。」これは今のブラック企業の論理に通じるような印象を受けます。
p35では「集団は、個人に対して集団の欲求に一致する人格なることを要求し」というのは、昭和の会社組織を支配していた原理に通じるように思います。
p36~37ではしつけと類型化の説明がなされます。
「しつけはあるものを一定の形に整えることを意味していた」との説明は、仕付け糸がすぐイメージできます。
昔の農耕集団では「成長してゆく子供を一定の木範にあてて、その素質を矯め直し、類型的な人間に育ててゆくこと、集団の要求に応える人格を形成していく」ことがしつけの本来意味と説明され、洗脳そのものと感じますが、その中に親子三代暮らしていると、染まってしまうのでしょうね。
欧米では、「将来独立すること、人に頼らずに個人責任で生きていくことへの子育て」と言われますが、日本でのしつけは「他への義理をわきまえ、地域での作法を知り、帰属する集団の中で笑いものにならない人間、人に後ろ指をさされな人間に育てていくことが理想だった」とありますが、さすがに今では通じにくくなっていることでしょう。
個性が集団に従属し、集団の意志が個人の行動を決定していくという仕組みは、その集団を支配運営する人にとっては楽な剥き身でしょうが、従属させられる個人はたまったものじゃないと思います。
[ 更新:2022-03-12 15:14:46 ]